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週刊メジャーリーグメジャーリーグ(MLB)情報満載のWeb週刊誌”私をMLBに連れて行って!” [毎週 日曜更新予定]2009年10月11日号(Vol.273) |
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ゴジラ松井の移籍先
今季、28本塁打、90打点のゴジラ松井の来季の去就に注目です。ヤンキースは松井選手と再契約の方向で検討しているそうですが、DHか代打で単年度契約という条件になるとの観測が出ています。これに対して、エンゼルスが松井選手の活躍に積極的なようです。エンゼルスは、外野手のゲレーロとアブレイユとの契約が切れ、その結果、外野にはハンター(打率.299、22本塁打、90打点)しかいなくなります。そうした時に、限られた出場機会で上記の成績を残した松井選手はエンゼルスにとっては魅力的です。また、ここ5年で4回プレーオフにチームを導いているエンゼルスのソーシア監督が、「松井は状況判断をしながらの打撃ができる」と高い評価をしています。その結果、ヤンキースよりも高い年俸で、かつ先発選手として契約をするのでは、との予測が出ています。
エンゼルスの本拠地のアナハイムは、日系人が多く、また日系企業も多いので、球団にとっても松井選手の獲得は営業的にプラスです。 試合にフル出場するのと、代打で使われるのでは、前者の方が打者にとってはいい成績を残しやすいことは確かです。そうした意味でも松井選手には悪い話ではないのですが、果たしてどうなるのでしょうか?
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ヤンキースとドジャース
今は東海岸と西海岸に分かれていますが、元々は両チームはNYのチームでした。そして、カラーは見事に違っていました。
マンハッタンのヤンキースは、管理職、経営者層を中心としたファンが多いのが特色、ですから、観客席にはスーツやジャケット姿が目立ちました。 一方、ブルックリンのドジャースは、気さくな観客が多いのが特色でした。ブルックリンは、最低の生活から抜け出すことができた人が移り住む町です。ですから、様々な人種の人が暮らしており、明日への明るい希望を胸に働いて生活しているのです。ですから、その多くが現場で働いていたり、あるいは平社員として勤務していたりしました。また、駆け出しの研究員や学者も住んでいました。住宅費がマンハッタンよりも安いからです。そして、ブルックリンの住民の多くは、橋や地下鉄を使って川向こうのマンハッタンの職場に働きにいき、そこの上役はマンハッタンに居住するヤンキース・ファンだったりしたのでした。 ブルックリンは、最近のアメリカのドラマでも、マンハッタン在住のお高く止まった女性が「あの人は、今度、マンハッタンからブルックリンにお引越しするのね。ああいう風にはなりたくはないわね。」と発言するシーンが出てきますが、実際に住んでみるととてもいいところです。 マンハッタンでは公園というとセントラルパークですが、ブルックリンではプロスペクトパークです。とても広く、たくさんのリスがドングリを運んで冬に備えて貯蔵していたりします。また、週末には、公園内で友人が集まっての野外の結婚式があったりもします。また、住民はフェアであることにこだわりを持ちます。様々な人種の集まりで、かつ、最低レベルの生活から抜け出して、明日への希望を胸に暮らしているからでしょう。 こうしたブルックリン住民にとって、ドジャースは非常に身近な存在でした。当時のドジャースの選手の給与は高くはなかったので、その多くがブルックリンに在住していました。ブルックリンは低層階のアパートメントが立ち並ぶのですが、ドジャースの選手と同じアパートメントに暮らしている人が、知人若しくは知人の知人にいたりする、それがますますドジャースを熱狂的に応援するブルックリンのファンを生みました。 ドジャースが西海岸に去ってからだいぶ経ってから、著者Y・Kはブルックリンで少年時代を過ごすのですが、たまに近所の大人がドジャースの遠征試合やWシリーズの試合があったりすると、なんとなくウキウキとして知人と会話していたりするのをよく目にしました。 ですから、ブルックリンの住民は、Wシリーズはドジャース対ヤンキースになることを望んでいる人が多いように思います。 |
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コラム
4割打者(13)
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1930年、カブスの監督に
1930年のシーズンの試合が始まって4試合目で、カブスの監督のジョー・マッカーシーはカブスを首になります。もっとも、すぐにマッカーシーはヤンキースの監督に招聘されるのですが。そこで、急きょ監督に昇進させられたのがホーンスビーでした。その結果、彼は1930年はあまり試合に出ることができませんでした。
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選手として最後の輝き
1931年がホーンスビーにとって、選手として最後に輝いた年でした。この年は、出場は前年よりも多かったものの監督業のかたわらでしたので、100試合にとどまっています。しかし、この100試合で彼は打点90、37二塁打を記録し、打率も.331と大活躍をしました。
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その後のホーンスビー
翌1932年は、彼は19試合しか出場せず、シーズン途中で8月2日にクビとなります。GMのビル・ピイックと選手起用について仲たがいしたのが原因でした。そして、その残りのシーズンに彼と契約しようとする球団はありませんでした。1933年に彼は古巣カージナルスに復帰しますが、競馬にのめりこんでいることを球団経営者に問題とされ、解雇されます。お酒もタバコもやらないホーンスビーでしたが、それが故に、競馬に大金を賭けるという刺激で心の均衡を保とうとしたのかも知れません。「競馬ではなく、株式投資をすればいいじゃないか」とするカージナルス経営陣に対し、彼は「株式投資は、結局は人の投資の失敗、人を不幸にして自分が金持ちになることですよね。それなら、競馬の方が罪がないように思えるのです」とコメントしたと伝えられています。そして、同年に、セントルイス・ブラウンズの監督兼選手となり、1937年までプレーして引退します。生涯打率は.358、安打2930、本塁打302、打点1579でした。
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NYメッツのコーチ時代のエピソード
その後の彼は、いくつかの球団のコーチをしたりして過ごします。1962年に創立されたNYメッツのコーチに就任していた時のエピソードは面白いです。この年のNYメッツは記録に残るほど弱いチームだったのですが、ある日、新聞記者に質問をされます。
「ホーンスビーさん、最近の投手は変化球の数も増え、昔よりも打ちにくいんじゃないですか?今の時代の投手陣に対して、ホーンスビーさんはどの位の打率を残せることができると思いますか?」 「う〜ん、そうだな、打率.280から.290くらいかな」 「え〜、打率4割を記録したホーンスビーさんにしては、随分と控えめな数字ですね。」 「そりゃそうだろ。俺はもう66歳なんだぜ。それ以上の打率を俺に望むのは過大な期待というもんだぜ!」 そして、このインタビューは、ホーンスビーが心臓麻痺によりその生涯を終える1年前に行われたものでした。 |
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![]() Last Update : OCT. 11. 2009 |
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